旧帝大医学部 のバックアップ(No.3)
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- 旧帝大医学部 へ行く。
- 1 (2023-07-22 (土) 06:19:05)
- 2 (2023-07-22 (土) 10:19:35)
- 3 (2023-07-23 (日) 15:07:02)
- 4 (2023-07-24 (月) 11:46:17)
- 5 (2023-07-26 (水) 12:47:27)
- 6 (2023-07-26 (水) 14:30:48)
- 7 (2023-09-28 (木) 14:56:59)
- 8 (2023-10-11 (水) 10:35:21)
- 9 (2023-10-20 (金) 11:26:09)
- 10 (2023-10-21 (土) 17:01:29)
- 11 (2024-02-02 (金) 10:41:32)
- 12 (2024-06-19 (水) 09:47:26)
- 13 (2024-09-18 (水) 14:25:13)
- (適塾(1838年(天保9年))→)大坂府仮病院(浪華仮病院及び仮医学校)(明治元年12月,明治2年[1869年]2月)→大坂府病院(明治2年7月19日)→大坂府医学校(明治2年11月)→(官立)大坂医学校(明治3年2月*1)→(官立)第四大学区医学校*2(明治5年8月)→廃止(明治5年10月2日)→
- 大阪府病院教授局(明治6年2月)→大阪公立病院教授局(明治12年4月)→府立大阪医学校(明治13年3月)→甲種医学校認可(明治15年5月)→大阪医学校(明治21年1月)→大阪府立医学校(明治34年6月)→大阪府立高等医学校((1903)明治36年10月)(→府立大阪医科大学(専門学校令準拠)→旧制大阪医科大学→大阪帝国大学医学部(→新制大阪大学医学部)
東北帝国大学医科大学(大正4年[1915年]7月14日)
- (明倫養賢堂(宝暦10年[1760年])→仙台藩医学校(文化14年[1817年]*3)→施薬所(1869(明治2)年→)
- 宮城県立医学所(1872(明治5)年5月~8月)→共立病院附属学舎(共立学舎)(1872(明治5)年9月)→共立義塾(1873(明治6)年3月)→共立病院附属塾舎(1873(明治6)年8月)→宮城病院附属医学校(1879(明治12)年7月)→(県立)宮城医学校(1880(明治13)年)→宮城病院附属医学校(1881(明治14)年)→宮城医学校(1882(明治15)年7月)→(官立)第二高等中学校医学部(明治20年[1887年]8月)→第二高等学校医学部(明治27年[1894年]6月)→仙台医学専門学校(明治34年[1901年]4月1日*4)→東北帝国大学医学専門部(明治45年[1912年]4月1日*5)→東北帝国大学医科大学(大正4年[1915年]7月14日)→東北帝国大学医学部(大正8年[1919年]4月1日)(→(新制)東北大学医学部(昭和26年[1951年])
*1 この時期の管轄は府か、国か、判然としない。「大阪府管轄とはいいながら、学則や人事だけでなく、毎月の経費を全額国庫に依存しており、実質は官立医学校と変わらない」(『京都大学百年史 総説編』{p22})状況だったようだ。なお、明治4年の廃藩置県以前は「府藩県三治体制」であり、「府」と「県」は政府の直轄地であったから、府立か官立かを問うことはあまり意味がないのかもしれない。廃藩置県後に文部省ができると文部省管轄となった。
*2 明治5年の学制発布により、「第四大学区医学校」と改称。
*3 文化14年[1817年]廃止
*4 明治36年[1903年]専門学校令認可
*5 大正7年[1918年]4月26日廃止