旧帝大医学部 のバックアップ(No.8)
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東京帝国大学医学部
1858年(安政5年)正月、伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。この種痘所は11月に火災で類焼するが、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮所として種痘は継続され、翌年9月に別な場所に再建された。文久1年1月(1861年11月)に幕府直轄とされ「西洋医学所」と改名し、種痘は同施設の一部門となる。文久3年2月に医学所と改称。
慶応4年4月(1868年5月)、明治新政府に接収されて6月26日(新暦8月14日)には「医学校」と改称され、翌明治2年(1869年)1月にはイギリス公使館付医師のW・ウィリスを教師として授業を開始した。
この医学校は翌2月には官立の「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となるが、同年7月18日(新暦8月15日)の大学校設立に際し、開成学校(旧幕府の開成所の後身)とともにその管轄下に入り、大学校「分局」とされた。明治2年12月17日(1870年1月18日)、大学校の「大学」改称にともない医学校は「大学東校」と改称されたが、翌3年7月12日(1870年8月8日)、内紛により大学本校が閉鎖され「大学」自体が有名無実化すると大学東校は独立、同年閏10月に学校規則が制定され予科・本科の組織が確立された。翌明治4年7月18日(1871年9月2日)、大学の正式廃止と文部省発足にともない、7月21日(新暦9月5日)に「東校」と改称された。同年9月25日(新暦11月7日)、政府は東校をいったん閉鎖して規則を改正した上で翌10月に再開、こののちドイツの医科大学をモデルとした組織改革が進んだ。
明治5年(1872年)の学制頒布により、8月3日(新暦9月5日)、東校は「第一大学区医学校」となり、ついで1874年(明治7年)5月、東京医学校と改称された。
東京開成学校(大学南校の後身)とともに1877年に発足した「(旧)東京大学」設立の母体となった。
- 明治32年の京都帝国大学医科大学設置の際は、医科大学は大阪に置こうという文部省の意向であったが、岡山県や京都府からの誘致運動の結果、京都に設置されることになった。
- 政府委員だった牧野伸顕(大久保利通の次男)が大阪医学校(現・大阪大学医学部)の官立移管(政府直轄)の提案を行ったがならず、大阪医学校とは別に第二帝国大学医科大学を大阪に建設しようとしたが、京都府からの熱心な誘致運動により京都に帝国大学医科大学が設置された。*1
- 当初の予定では、京都府医学校(現・京都府立医科大学)の教室等を譲り受け、医科大学を開始することになっていたが、猪子止戈之助京都府医学校校長(医科大学の創設時に教授,付属医院院長となった。)の進言により、新たに土地を買収し、全施設を新設する案に変更された。*2
- 京都府医学校は、医科大学が設立されるや優秀な人材が転出し、一時存亡の危機におちいった。
- 京都府医学校は、医科大学が設立されるや優秀な人材が転出し、一時存亡の危機におちいった。
- 淵源は1867年(慶応3年)設立の福岡藩の藩校「賛生館」。
- 明治8年に仮病院、明治9年に福岡医院設立。この病院内で医学教育が行われ、明治12年医学教育は独立して福岡医学校となり(実際の開校は翌年1月)、福岡医院はその付属病院となった。1880年(明治13年)1月10日、福岡医学校開校。1888年(明治21年)4月、福岡県立福岡医学校廃校。福岡県立福岡病院として病院組織は存続。
- 1903年(明治36年)3月25日、京都帝国大学福岡医科大学創設〔勅54〕(九州帝国大学の創立より前)。
- 福岡医科大学創設時に、熊本県と誘致合戦があり*3、未だに九大医と熊大医は仲が悪い。
- 福岡医科大学創設時に、熊本県と誘致合戦があり*3、未だに九大医と熊大医は仲が悪い。
- (明倫養賢堂(宝暦10年[1760年])→仙台藩医学校(文化14年[1817年]*4)→施薬所(1869(明治2)年→)
- 宮城県立医学所(1872(明治5)年5月~8月)→共立病院附属学舎(共立学舎)(1872(明治5)年9月)→共立義塾(1873(明治6)年3月)→共立病院附属塾舎(1873(明治6)年8月)→宮城病院附属医学校(1879(明治12)年7月)→(県立)宮城医学校(1880(明治13)年)→宮城病院附属医学校(1881(明治14)年)→宮城医学校(1882(明治15)年7月)→(官立)第二高等中学校医学部(明治20年[1887年]8月)→第二高等学校医学部(明治27年[1894年]6月)→仙台医学専門学校(明治34年[1901年]4月1日*5)→東北帝国大学医学専門部(明治45年[1912年]4月1日*6)→東北帝国大学医科大学(大正4年[1915年]7月14日)→東北帝国大学医学部(大正8年[1919年]4月1日)(→(新制)東北大学医学部(昭和26年[1951年])
- (適塾(1838年(天保9年))→)大坂府仮病院(浪華仮病院及び仮医学校)(明治元年12月,明治2年[1869年]2月)→大坂府病院(明治2年7月19日)→大坂府医学校(明治2年11月)→(官立)大坂医学校(明治3年2月*7)→(官立)第四大学区医学校*8(明治5年8月)→廃止(明治5年10月2日)→
- 大阪府病院教授局(明治6年2月)→大阪公立病院教授局(明治12年4月)→大阪府立大阪医学校(明治13年(1880年)3月)→甲種医学校認可(明治15年5月)→大阪医学校(明治21年1月)→大阪府立医学校(明治34年6月)→大阪府立高等医学校(明治36年(1903年)10月)→府立大阪医科大学(1915年(大正4年))*9→旧制(大阪府立)大阪医科大学(1919年)*10→大阪帝国大学医学部(1931年(昭和6年))(→新制大阪大学医学部(1947年))
*1 高梨光司著『佐多愛彦先生伝』(昭和15年5月)
*2 『京都帝国大学史』pp.17-18、『京都府立医科大学百年史』1974年、p.67
*3 熊本は当時九州の中心都市であるという自負があり、熊本に決定するのを当然視していたためか、誘致運動は高まらなかった。福岡内定説が出るに及んで誘致運動をようやく本格化させたが、出遅れを挽回することはできなかった。
*4 文化14年[1817年]廃止
*5 明治36年[1903年]専門学校令認可
*6 大正7年[1918年]4月26日廃止
*7 この時期の管轄は府か、国か、判然としない。「大阪府管轄とはいいながら、学則や人事だけでなく、毎月の経費を全額国庫に依存しており、実質は官立医学校と変わらない」(『京都大学百年史 総説編』{p22})状況だったようだ。なお、明治4年の廃藩置県以前は「府藩県三治体制」であり、「府」と「県」は政府の直轄地であったから、府立か官立かを問うことはあまり意味がないのかもしれない。廃藩置県後に文部省ができると文部省管轄となった。
*8 明治5年の学制発布により、「第四大学区医学校」と改称。
*9 学長佐多愛彦。専門学校令準拠のまま改称、大学令による旧制大学ではない)
*10 日本初の公立旧制大学。大阪府立のまま改称、大学令に準拠の旧制大学となる