慶應義塾大学 のバックアップ(No.12)


 
  • 東京都に本部を置く日本の私立大学。
  • 通称は「慶應(けいおう)」。

概要 Edit

  • 起源は、中津藩士の岡見清熙が福澤諭吉を招聘して江戸築地鉄砲洲*1の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」。

特徴 Edit

  • かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。
    • 慶應義塾長だった小泉信三氏が、海軍の軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験からこのような制度を作ったとされている。
  • また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。
    • このような高等学校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。

学部 Edit

文学部 Edit

経済学部 Edit

法学部 Edit

商学部 Edit

医学部 Edit

  • 1873(明治6)年、蘭学塾・慶応義塾に一度、慶応義塾医学所を開設したが、財政難で1880年に閉鎖している。

幻の農学部 Edit

  • 1944年(昭和19年)4月に旧制慶應義塾獣医畜産専門学校が開設され、5月に日吉の第2校舎で授業を開始した(校長小泉信三塾長、主事西谷謙堂)。
  • 初め大学農学部設置の予定で準備されたが、政府の戦時下文教政策の転換によって、大学ではなく農業専門学校に短縮され、さらに獣医師養成の機関にその目的を変更された。
  • しかし同年夏には、将来農業方面で指導的人材を養成するべく、農業研究所を開設して農業研究の充実に意欲を示していた。
  • ところが開校後戦局は苛烈さを増し、教育環境は一変して生徒に学業に専念することを許さず、20年に2期生が入学するころは、空襲も激化し理科学生の特権であった徴兵猶予の特典も失われ、入営・入隊する生徒も現われた。
  • 20年4月の空襲の際は幸いたいした被害はなかったが、戦後は連合軍により日吉地区が接収されたため、急遽川崎市蟹ケ谷にある旧海軍の通信隊の施設を利用し、10月に移転して授業を再開した。
  • この蟹ケ谷で3期生を迎え、3学年全員が揃ったところで、ようやく学校としての体裁も整った。
    • そこは日吉駅からドロンコ道を小1時間、イモとムギの畑に囲まれた木造兵舎で、目立つものは巨大な鉄塔だけという環境ではあったが、600名の若者にはそれは桃源郷であった。
  • 1期生76名は、22年7月この蟹ケ谷から巣立って、晴れて獣医師の資格を得、慶應義塾は初めて獣医師の塾員を迎え容れたのである。
  • その後同年12月、塾員松永安左ェ門の寄付になる埼玉県志木の地に移転し、4万5000坪(15万平方メートル)の広大な敷地で充実した実験実習が行われていた。
  • しかし戦後の教育制度の改革により22年から生徒募集を停止し、24年3月3期生の卒業をもって廃校し、農業高校に転換した。
  • 獣畜専の卒業生は356名、うち6分の1は獣医師として社会に貢献している。
  • 彼らの同窓会は「蟹ケ谷三田会」と称している。
  • 終戦後、獣医畜産専門学校を農学部にしようとの動きもあったが、戦災で痛手を受けた義塾当局に新学部を設置するような余力はなく、在学生の卒業を俟って廃校となった。
  • 1948年、学制改革により慶應義塾農業高等学校(現・慶應義塾志木高等学校)へ転換、志木の校地を継承した。

1944年 慶應義塾の大学農学部を設置しようとするが、戦時下での政府の方針により慶應義塾獣医畜産専門学校設立(日吉)
1945年 川崎市蟹ケ谷に移転
1947年 東邦電力の東邦産業研究所敷地を松永安左エ門が慶應義塾に寄贈
1948年 慶應義塾農業高等学校が開校

工学部 Edit

  • AO入試ではあるが、プロ野球選手を輩出している。

総合政策学部 Edit

環境情報学部 Edit

看護医療学部 Edit

薬学部 Edit

  • 薬学部には薬剤師養成を目的とした6年制の薬学科と、科学者養成を目的とした4年制の薬科学科が置かれている。

薬学科 Edit

薬科学科 Edit

キャンパス Edit

日吉 Edit

三田 Edit

信濃町 Edit

湘南藤沢 Edit

芝共立 Edit

入試 Edit

概要 Edit

出身者 Edit

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*1 現・東京都中央区明石町