長岡亮介 のバックアップ(No.2)
長岡亮介(ながおか りょうすけ)は数学者。元駿台予備学校数学科講師。元明治大学理工学部数学科特任教授。
経歴
- 1947年、長野県長野市生まれ、神奈川県横浜市育ち。
- 聖光学院中学校・高等学校卒業。
- 1966年、東京大学教養学部前期課程(理科一類)入学。
- 1972年、東京大学理学部数学科卒業。
- 1977年、東京大学大学院理学系研究科博士課程(科学史科学基礎編専門課程)単位取得退学。
- 数理哲学、数学史を専攻。
- 津田塾大学学芸学部数学科講師・助教授。
- 大東文化大学法学部教授。
- 放送大学教養学部(自然の理解専攻)教授( - 2008年3月)。
- 放送大学大学院文化科学研究科(文化科学専攻総合文化プログラム環境システム科学群)教授。
- 上智大学理工学部非常勤講師。
- 明治大学理工学部数学科特任教授(2009年 - 2017年3月)。
- TECUM代表。
授業
- 師はその頭のよさゆえに、予習をせずに教壇に立った。
- テキストの予習はしておらず、テキストの問題解説では、初めて問題を解く最初の授業ではなかなか進まないが、2番目以降にあたったクラス(特に延長できる午前最後の四時限目)では研ぎ澄まされた解説を聞けたとのこと。
予習をしていないので授業中は前方の生徒に「どのような方針で解くか?」と質問していた。- 生徒が答えるとたいてい「そんな解法はダメだ。」と言っていた。ごくまれにいい解法を答えると褒めることもあった。
- 哲学じみた雑談の合間に授業を進めるといっても差し支えないほどのものであった。
- が、その雑談に啓蒙される者も少なくなく、なんといっても師の解答解説は数学の奥深さを感じられるものであった。
- 旺文社の『全国大学入試問題正解』の東京大学の解説にその片鱗を伺い知ることができる。
- その一方で、テキストのやり残しの埋め合わせに信者に作成させた解答をそのまま配布して授業を終えるなど予備校講師としてはいささか「雑」な側面も持ち合わせ、その長く時に説教じみた雑談と相まって一部の生徒の間での評判は芳しい物ではなかった。
- このように賛否両論あったが、予備校を卒業しても長く記憶に残る師であることは間違いない。師のような、学者兼業のアウトローな予備校講師を「名物講師」として受け入れる寛容さがかつては駿台にも生徒にもあった。
- 生徒の授業態度には厳しかった。
- 「長岡先生はガムをかむのだけは許さない人だった。 生徒がガムをかんでいるのをみると、 『吐き出すな!飲み込め!』と言う人だった。」(山口紹師談)
- ガム以外でも(当たり前だが)授業中に寝てたり、話したりしても激怒されていた。
- 学会で師が授業出来ない時は補講をせず、理三(師の教え子?)の学生に代講をさせていたという。
担当授業
通期
- 数学X# §?
- お茶の水校(3号館) 午前部理1α
- 数学XT §3
- お茶の水校(3号館) 東大理系スーパー
- 数学XT §5
- 駿台出講最終年度
- 東大理系数学
- お茶の水校(3号館) 東大理系スーパー 1992年度
夏期講習
- 数学的数学考究―または記号論理の主題による数学的変奏曲
- 1992年度頃にPART I、PART IIに分かれた。
- 数理世界の探検
- 1992年度に、当時、代ゼミの安田亨師が見学。
- 図形問題の多角的研究
- 数学最高峰(解析編) 長岡亮介・渡辺理史
- 数学最高峰(幾何編) 長岡亮介・雲幸一郎
冬期講習
- 最後の高校数学
直前講習
特設単科講座
- 大学への数学 演習編
- 新宿校
- 大学への数学 微積編 1992 - 年度
衛星単科(サテネット21)
- 数学の冒険
人物
- 数学者(近現代数学史、数理思想史)。
- 専門は、近現代数学史、数理思想史、そして最近は情報科学論。
「数学の意味を追いかけていったら、数学史にたどりつき、最近は、進展するICT革命に、数学哲学と数学史の立場から強い関心をもっている」 - 現在、意欲ある若手数学教育者を支援する組織「TECUM」を主宰。
- オフィシャルサイト→長岡亮介先生の数学
- 元オフコースの小田和正氏、鈴木康博氏は聖光学院中高の同期。
- まれに講義中の雑談で、小田氏に触れることもあった。
- 「私の学生時代は決められた道から外れることが流行った。オフコースって私の友達は歌うたっていますけどね。」とも。
- 駿台予備学校時代はカリスマ講師として君臨し、信者となる生徒も多数いた。
- 駿台の教壇に立っていたのは大学院の博士課程の1年目、25歳から50歳頃まで。
- 大学教員との兼職であったため、通常授業、講習ともに担当する授業数は限られていた。
- 1990年代末まで箱根セミナー東大コースへも出講していた。
- 駿台から独立した池袋の駿友予備学校(のち駿優予備学校)にも、創立当初から1988年度頃まで出講し、テキストも編集していた。
- よくあるペンネームなどは使わず、一貫して本名を名乗っていた。
- 若い頃から口ひげを蓄え、
偉そうな貫禄のある立ち振る舞いをしており、独特の雰囲気があった。 - 津田塾講師時代は勘違いしてサーファーっぽく決めていたらしい。
- また、授業態度の悪い学生に激高し、黒板消しで頭を叩くなど、厳格な面を持ち合わせており、このようなところも一部の学生を惹きつける魅力であったのだろう。
- 駿台生の間で、師は理三から理学部数学科に進学したという噂が流れたが、本人が講義中に否定している。
- 市谷校舎を批判したり、そもそも医者という職業を小馬鹿した発言もあった。
- 「医者なんて自動車修理工と同じ、何も創造しない」
- これを駿台OBの理三生を教室に並べて発言したらしい。
- 「医者なんて自動車修理工と同じ、何も創造しない」
- 「東京大学は有能な一人を造るために残りの9割以上を犠牲にする」とも。
- 予備校の教壇を降りた今なお、大学受験業界において影響力を持ち続けている。
- 「大学への数学」シリーズ(研文書院)(いわゆる黒大数)は師の代表的な著作である。
- 大学の恩師である藤田宏氏に、黒大数への執筆参加を依頼された際は、月刊大数と勘違いしていた。
- 「寺田の鉄則」の寺田文行氏から、本人直々に鉄則の後継者を指名された
が、本人は嫌がっていた。- 「寺田の鉄則」や「チャート式」については<鉄則>や<チャート>のような解法の公式化には批判的だったが、参考書としては評価はしていた。
- 「寺田の鉄則」は、1989年に旺文社の「総合力完成シリーズ」が「詳解シリーズ」にリニューアルされる際、「鉄則シリーズ」として分離・独立したが、その時に長岡師は『大学受験 詳解 数学I』を上梓した。
- その後、詳解→本質がつかめる→本質の研究→総合的研究と改訂されて今に至っている。
- 師の伝説の夏期講習「数学的数学考究―または記号論理の主題による数学的変奏曲」が、『総合的研究』の別巻として書籍化されている。
- くもん式には否定的である。計算問題が苦手だったため。
- いわゆる「暗記数学」には一貫して批判的姿勢を貫いてる。
- 暗記数学が一般にも浸透し始めた1988年度当時の旺文社の大学受験ラジオ講座において、「数学は暗記だという人はナイーヴ(単純バカ)なんですね。」と発言している。
- 元・駿台予備学校数学科講師で、現・東進ハイスクール数学科講師の長岡恭史師は実弟である。
- 駿台での在職期間が重なり、兄弟の顔写真が仲良く並んでパンフレットに掲載されていた。
- 長岡兄弟の幻の共著『傾向と対策 基礎解析』(旺文社)は、ほとんどは弟が書き、兄は
パラパラ、チェックした監修しただけだったという。 - https://sankosho.biz/2018/01/12/daigakunyu-shikeikoutotaisaku-kisobunseki1993/